楽しく厳かに生きる

今日は良い一日だった。だからこの記事は久しぶりに発信することにする。ほぼ2か月間、更新することがなかったが、今日は気分が良いし、だからこれは仕方のない事のだと割り切れる。こういう日は、滅多にないので、誰かと共有するのも悪くないと思い始めている。

素粒子について考えていた。といっても、私は専門家ではないし、素粒子に関する一般向けの科学啓蒙書を読んだ記憶もないので、ここでいう素粒子は一般的な意味とはだいぶん違うかもしれない。しかしまあ、とにかく素粒子は体細胞よりも小さくて、空気中を常時飛び交っているという事は分かっていた。このような断片的な情報は、「なぜ世界は存在しないにか」という本を読んでいて印象付けられたことだった。まあとにかく。

冬の、よく晴れた、温かい、日曜日の昼下がりだった。カーテンを開け放した室内に光が満たされていた。布団にあおむけになり、目を閉じていた。開いた窓から顔にかかる風、瞼の外に感じる午後の陽光、服の内側にこもった体温。素粒子は体細胞よりもずっと小さいから、体を通り抜けることができる。素粒子は、いつでも、体をすり抜けている。素粒子の世界について想像しながら、あおむけに寝転んでいた。心地よかった。しかし、素粒子は感覚を超えたところにあって、感じることはできない。それでも、素粒子がいつでも体を通り抜けているというのは、科学的にみて事実だし、そうした事実がもたらす、認識の在り方を、少なくとも実感していた。部屋は掃除したばかりのにおいがした。実際に掃除したばかりだったし、アイロンをかけた後の衣服のような香りだったので、それも心地よかった。このにおいの元はたぶん、布団を天日干ししたからだ。昼食に調理したチャーハンの焼き加減が甘かったせいか、午後は猛烈な腹痛が何度か襲い掛かってきたけれど、それも自作自演の喜劇のようなものとして受け取ることができた。ここ連日、夜中はゲームばかりしていた。ゲームが、生きるよすがとまで言えるかどうかは別にしても、それが一つの完成された快楽であるのは間違いない。筒井康隆の「残像に口紅を」という小説にこんな一節がある。

レストラン・ビルの一回奥の洋菓子店を兼ねた喫茶店に佐治はしばしば出かけ、窓ぎわの席でぼんやり時間を過ごす。執筆で疲れた神経を休める、というほどのことではなく、ぶっ続けに原稿を書き続けていると一種の空しさに襲われ、人生を浪費しているような気にもなるし、そもそもなぜ「浪費」などということば浮かぶかといえば、執筆は、それを職業にしようというほどの者にとっては快楽とも言えるため、その快楽に絶頂感が迫ってきた時、そいつをちょいとばかし先送りにして、それ故に沸き起こる愉悦の中へしばし身を浸そうかという気にもなるのだ。 

 今となっては古風な文の現れ方だが、いささかも不愉快な感じはしない。ゲームは執筆に似ている部分がある。というのも、私には、あらゆることが一種のゲームに思えてならないという、強迫観念めいた意識があるので、執筆の快楽も、その先送りも、一つのゲームに思えてならないからだ。また、「エロティシズム」という、初見で敬遠しそうになる書を書いたバタイユは、「文学と悪」という批評集で、「快楽は肉体を弱くし、労働は肉体を強壮にする」と書いていた。三島由紀夫がビルドアップをしていたのは、幼少期の肉体へのコンプレックスの他にこのような理由もあったのだろうと推測する。村上春樹も、執筆のコツは足を鍛えることだと書いていた。足は第二の心臓なので、血流のめぐりが良くなり、執筆活動もスムーズにいくのだとか。まあ、一応、根拠のある話なのだろう。とはいえ、私にとってゲームとは、まず第一にテレビゲームであるので、ゲームのためにわざわざ、肉体のビルドアップなどをして、血流を良くしようとはもちろん思わない。しかし、連日ゲームばかりしていると、軽いエコノミー症候群になりそうだったので、今日は1時間くらいしかやらなかった。徹夜続きの毎日でもあったので、今日は久しぶりに昼間に活動していたことになる。そういうわけで、ずっと真夜中でいいのにとは、必ずしも思えなかった。

 

ゲームといえば、言葉遊びゲームもした。時々やる。

ゲームといっても、思い浮かんだ言葉を紙に書くだけのことで、そこにちょっと、かんたんなイラストを添えたりする程度のことだ。「楽しく厳かに生きる」は、言葉遊びゲームから発生したことばで、語感が良かったから記事のタイトルに使うことにした。それから他に、いくつかの言葉も書いた。代表的なのを挙げてみよう。

それから ジャムは イチゴ味のジャンゴ

たまらん タマラの 大合唱

ゴム味の コンドーム 東京の夜明け

ウルトラマントヒヒ タクラマカン砂漠

ユーズドバイセルフ マイセルフ バイセクシャル

くらららと頭に 電波が飛んで来た

アッコちゃん 79歳 ミカンが好き

言葉遊びのパプアニューギニア

チャンコナベでチャンコ ジャンゴ めちゃんこ

 「ゴム味のコンドーム東京の夜明け」なんかは、なかなかに詩情を感じさせるものがある。性的な響きとは別に、奇妙な味わいがあるし、ゴム味のコンドームに続いて「東京の夜明け」へとランドスケープが開かれる感じがけっこう好きだ。

「アッコちゃん79歳ミカンが好き」も意外性を感じるし、素朴な可愛らしさがあるところが気に入ってる。

ジャンゴは少し気になるが、おそらくタランティーノ映画の影響以上に、「ジャンゴ」ということばのイントネーションが良いからだろう。

 

 

いつでも眠れる人

午前4時。そろそろ何にも手がつかないし、布団に入ろうと思うけど、いまだ眠れる気がしない。

こういうときどうしたらいいだろうかと思案するも、ネットで検索したって、それについては誰も良い考えを寄越してはくれないだろう。

腹式呼吸も、レモンティーも、アロマキャンドルも、手軽に手に入れられるネットの情報は全部無意味だ。コンプレックス商法であり、マーケティングでしかない。

それから、酒にも薬にも頼りたくない。

 

だから、自分で考えるしかないのだけど、そもそも思考を中断するために布団に入るのだから、どうすれば良いのかと考えること自体が本末転倒なのである。

だから、こうやって文章をしたため始めたのは、問題を先送りにするため。

 

いずれ、疲れて眠れる時がやってくる。

 

やはり今から布団に入って、読書でもしてみようか。

 

毒文

なんでこんなに疲れるんだろう。

今日は起きてから男親にイライラされっぱなしだ。とくになにか言われたわけでもないのに、週末が来るたびに大音量で流れる宇多田ヒカルを聞くと、死ねばいいのにと思う。別に宇多田ヒカルに恨みはない。

 

なんでこんなに疲れるんだろう。

いくつかのアジテーションを含んだ本を思い出してイライラする。お高くとまった、クリエイティブクラスなんて消えろと思う。

 

不意にやって来る悪い過去の記憶に凍りつく、まさかの葛藤。死にたいと思う。

 

幸福そうなイメージ写真をサムネにしてるやつは、サメに顔を喰われちまえと思う。もっもらしいこといってマーケティングしていい気なものだ。カス。

 

本当のところ、別にどうだっていいことのはずなのだ。ただイライラしたくないだけなのに、カルシウムが足りないのか、なんなのか

 

こうやって毒を吐くことに心の安定を得る効果はあるんだろうか。あるんだろうな。だから、飲みニケーションは無くならない。どうしようもないことはたくさんある。

 

死ぬこと以外は全部、2番以下だ。

 

それも最後に必ず訪れる。焦る必要はない。

考えるな1

ディスカバリーチャンネルエドのサバイバル生活を見ているときに、自分も思考を抑制する必要がある思った。

 

考えるということはつまり、疑問に思うことだ。一度疑問が膨らんでくると、考えが止まらなくなる。

自分のように挫折を繰り返したり、孤立していたり、長いこと創作でいい結果を残せていないと弱気な思考ループに陥りやすい。

その点、より若く挫折を知らない人たちは思考が案外シンプルで自分を疑うということを知らない分、前向きになりやすいかもしれない。

 

漫画を書き続けるのは、それが楽しいからだ。

振り返ると創作を楽しんでいるときは頭が空っぽだったし、疑問も持っていなかったはずだ。

より良い作品を書こうと思うと、書いたものを読み返して疑問を持ち、修正を加えていくということが不可欠だ。

それはあらゆることでそうだ。より良い生活、より良い学習、より良い選択。

疑うことは生活も学習も合理的選択能力も向上させる。

しかし、今は疑うということが心理的に悪影響している。

 

自分は読むことを覚えた結果疑うことを学んだが、書くことを通して再び考えないということを学ぶ必要があるだろう。

 

 

 

絵を書いた

液タブを買って、パソコンを買った。前の板タブが壊れたし、液タブも安いのが販売されてからとうとう買ってやった。下のは毎日書いてる人の絵ではない。

 

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前のモバイルノートではパワー不足だったからパソコンも買った。おかげでずいぶん作業環境も快適になった。

漫画創作はアナログとデジタルを右往左往していたけれど、今後はフルデジタルでやっていこうと思う。

かんたんなスケッチなどはあいかわらず紙と鉛筆が良いけれど。