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うらやましいねえ。僕はおそらくこういう風にはなれない。しかし、なれないなら、なれないなりに生きていく方法はあるし、そう思って生きていくほうがずっと穏やかな気持ちでいられる。幻想は捨てて、地に足をつけて生きるのだ。


27歳で経済的な自由を手に入れ、年1000万円の不動産収入を得る青年が勧める2冊の必読書 | Business Insider Japan

そして、この青年の勧める必読書は成功のために何の役にも立たないだろう。この思い込みは消極的に聞こえるかもしれないが、僕にとってははるかに実用的だ。

嫉妬を感じるので、今後はこうした自伝をAIに表示させるのは止めさせよう。

未来を信じるか否かは別に力じゃないと思う


日本が投資後進国なのは「未来を信じる力」がないから 社会の閉塞感から抜け出せない「被害者意識」の問題点 - ログミーBiz

未来について状況証拠から予測したり、投資先に関してリテラシーに基づいた正確な診断ができるかどうかは力だと思うけど、そうではなくただ一義的な判断によって未来は良くなるとか、悪くなるとか信じるのはただの盲信だ。

日本人がどういうわけが投資をしないと書かれているので、その理由について考えられる可能性を上げていこう。ちなみに僕は投資に関してはまったくの素人だ。ただまったくの素人だからこそ書けることがあるとだけ明記しておく。まず第一に、投資について体系的に学べるとこが少ないか、あるいは情報が多過ぎて何を信用していいのかわからないか。投資についてどうして学ぶ必要があるのかというと、投資の方法が分からなければ、まず投資ができないし、投資には株価の低下というリスクがあるのでリスクヘッジの意味もこめて知識をつけなければならない。これに関しては、書店に行けば棚には大量の投資関係の書籍が並んでいるし、投資関連のセミナーやオンラインスクールなど、検索数の多さからして、これは後者だと分かる。しかし受講者に高額の費用を支払わせる詐欺まがいのセミナーや胡散臭い情報商材が大量に出回ってるなかで、何を信じていいのかわからなく心理というものがある。対照に貯蓄の場合は株式市場の影響を受けないため株価の低下に伴う資産の減少がない。さらに投資は管理がかなり大変だと言う。ただでさえ長時間労働が問題になっているのに、投資資産の管理にまで手が回るかどうはわからない。人生は短い。時間と金を費やして勉強し、さらに資産管理の手間までかけて資産減少のリスクを抱えつつ今より少し金を儲けるより、会社で働きながら自分の趣味とかに金と時間を使ったほうが有意義だと考えるのは何もおかしくない。さらに日本人は増税に加え、平均所得の低迷もあるし、昨今はウクライナ侵攻によって物価高もネックになっている。けっきょくこの人も「被害者意識と努力不足という」自己責任論に転嫁して本質的な問題についての議論を避けているだけなのだ。だいたい、投資という分野がある種の寡占状態にあるのは、教育の失敗云々というより、そうした状況が自分たちにとって有利だった先行参入者が何もしなかったのが原因じゃなかろうか。僕はこの記事を書いた人のことを何も知らないけど、仮にそうだとしたら、誰に責任があるのかもう一度よく考えてから文章書いたほうがいいんじゃないですかね?とでも言いたくなる。

岸田総理の「一億総投資家政策」にしてもそうだが、上から目線で納税者に負担を強いるばかりで本当に有効な政策を打ち出せたことが日本の政府には一度でもあったんだろうか。

一国どころか今ではグローバルにものを考えなければいけないし、そうなったときに、この記事の人みたいに「自分がこう感じるからそれは正しいんだ」という思い込みを持ってる限り、こういう大きな問題には対象できないと思う。官僚が下手ばかり打つのは、官僚がエリートばかりで庶民的な感覚が無いからではないだろうか。

父への不満

ある程度歳をとったなら、誰でも自分の親へ不満の一つや二つあったと思うし、あるいは今でもあると思う。もし過去にも現在にも無いという人がいるなら、こう答えよう。あなたは恵まれた人たちの中でもとりわけ、恵まれた人たちのうちのひとりだ、と。(あるいは不満すら抱けないほど愚鈍だという可能性もあるけれど)

マルクス・ガブリエルがある記事で提案したように、裕福な子は貧しい子の家庭に預けられそこで経験を積むべきだし、逆に貧しい子は裕福な子の家に預けられてそこで経験を積むべきなのだ。僕は家庭というドメスティックな問題について考えるとき、僕自身の経験の貧弱さがあまりにもネックになりすぎる。おそらくほとんどの人がそうだろう。複数の家庭を経て成長した子供なんて、どこにいる?再婚した夫婦の子供はそうかもしれないけれど、それはまた別の問題だ。育った家庭の経験について相対的な視点を獲得する間もなく、ぼくらは社会へ放り出されていく。これほど発達した社会においてさえ、なぜこうも、システムが原始的なのか。マイケル・サンデルが主張するように能力主義が全体の効用を損なうというのなら、親は子どもを一時でも手放すべきなのだ。それができないのは、家族主義という見えない全体主義のためだろうか。いや、論を急いてはいけない。これは限りない問題の一つだ。そして社会は正しい答えをいまだに得られない。けっきょく統計データが不足しているからとかいう、そんな理由で。

 

話は変わるが、藤井風の曲にちょっとだけはまっている。

藤井風が初めて世の中に認知されたのは2021年だった。楽曲を聴いてしばらく、考えてみたら、二十歳そこそこの青年があれほど成熟した世界観を持っていること自体が驚異的なのだ。きっと親の教育がしっかりしていたんだと思う。

それでここからが本題だけど、藤井風の「青春病」という楽曲を聴いたとき、思ったのが、僕の父にこの曲を聴いてほしいということだった。あの人は今、どうも本を書いているらしく、その本のタイトルが「不可能を可能にするアオハルパワー」とかなんとか。ここに書いたタイトルは軽薄なパロディだけど、ようするに父は自己啓発書を書いているようだ。

アオハルパワー?60手前のオッサンが何を言ってるんだ?冗談だろ?

あの人の頭の中には、サブカルチャーカウンターカルチャーの簡易なマップすら無いらしく、またまた一時の衝動にどうやら本当の自分を見出してしまったらしい。やれやれだ。何度同じ失敗を繰り返せば気が済むのだろう。だからいつまでたってもテフロンのフライパンを焦がし続けるのだ。学習能力がない。自分の内面を見つめたって、空虚さばかりで人生の答えなんか出やしない。

去年あれほど繰り返しFMラジオから流れていたヨアソビの楽曲も、今年に入って煙のように消え去った。たぶん藤井風の影響力だと思う。青春は人によってはすばらしい一時かもしれないけれど、未熟さからは卒業しなければいけない。社会でやっていくには、それこそ成熟した世界観を身につけなければならないのだ。父がもし、もっと成熟した人間だったなら、あの人は何度も転職せずに済んだだろう。今の職場が続いているのは、さすがにそのあたりは学習したということだろうか。

 

そして、僕自身も今、こんな風にはなっていなかった、・・・だろう。

 

もっとも、父が何を書こうがそんなことは何も問題にならない。勝手に書けばいい。ただ、テフロンのフライパンだけは焦がすなと言いたいね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

藤井風の「きらり」の魅力はどこかで聞いたことのあるような透明な既視感とそれを心地よく感じるところ。おそらくそう感じるのは藤井風は歌詞という主観を通して未来ではなく過去に焦点を当てているからだ。これまでにあり得た過去。もしくはこれからあり得るかもしれなれない過去に。

この曲を僕はおそらくCMか何かで聴いたこと失念しているのかもしれない。誰かのカバー曲かとも思っていた。

もはや思い出すこともできないけれど、ストリーミングで偶然再会したときは、前述したように透明な既視感と表現できる何かを感じた。懐かしさともまた違う。聴くたびに新しくなっていく過去がそこにあるように思えたのだ。あるいは過去ですらないのかもしれない。なぜこんな風に感じるのだろう。風だからだろうか。どこからか吹いて、どこかへ流れていく。風のような音楽だ。